先輩の声

「これまで、そしてこれから」松元満智子先生

山口大学医学部附属病院 緩和ケアセンター 助教

松元満智子先生  医師になっていつのまにか25年が経過しました。
 もともと老人医療がやりたくて、医師を志しました。 老人がみんな笑顔で亡くなることができたら…そんな思いを持っていました。 老人医療にダイレクトに結びつく科はなかったので、高齢者に多い疾患を診ることができるように循環器内科を選択しました。 半年間の大学病院での研修のあと、宇部市内の病院に赴任しました。急性期病棟もありましたが、どちらかというと老人病院に近い病院でした。 そこでみた老人医療の現実は、私が予想していたものと大きく異なっていました。 老衰で食欲の落ちた老人が連れてこられれば、経鼻胃管を留置して栄養をいれました。管を抜かれないように両手を抑制して…。 その後登場した胃ろうにより両手の抑制はなくなりましたが、1日中ベッド上でじっと天井をみている老人の姿に何か悲しい気持ちを感じました。 肺炎になって連れてこられた老人は呼吸状態が悪くなれば必ず気管内挿管・人工呼吸器管理がおこなわれました。 肺炎は治っても人工呼吸器からは離脱できず、気管切開がされて話すこともできないままに、モニターと医療機器に囲まれて過ごす老人。 家族の足は遠のきます。胃ろうをしても人工呼吸器をつけても必ず最期はやってきます。 集まった患者さんのご家族がみているのは患者さんの顔ではなく、心電図モニターでした。 「何かが違う」「これが私のやりたかった老人医療なのか?」 という思いがどんどん強くなり、医師になって10年目頃には医師を続けるモチベーションが保てなくなってきていました。 そんなときに自分が担当していた患者さんががんであることがわかりました。 手術をすれば治る可能性もあるのに、その患者さんは仕事のために手術をしないという選択肢を選ばれました。 その患者さんが亡くなられるまでの約半年間、使ったことのなかった麻薬の勉強をし、できるだけ最後まで仕事ができるようにサポートしました。 その患者さんのサポートの過程で緩和ケアというものに出会いました。 今まで自分が感じていた違和感や疑問は「患者さんの人生の最期なのに、患者さんから切り離されてしまっている」ということでした。
 緩和ケアでは「最期までその人らしく」ということをとても大切にします。 緩和ケアに出会ったことで、医師を続けるモチベーションを取り戻すことができました。
 その後大学病院にいる同級生やそれまで一緒に仕事をしたことのある大学病院の先生方にお願いして、 少しずつがんの終末期の患者さんをご紹介していただけるようになりました。
 5年間くらいそのまま走り続けましたが、独学でやってきた自分の緩和ケアに疑問を感じるようになりました。 卒業して半年で赴任してきた病院にその時すでに15年以上在籍していたので、居心地もよく、また他の病院に行くことに恐怖心もありました。 でもどうしても自分の緩和ケアに自信がもてるようになりたくて、山口赤十字病院の末永先生にお願いして、 緩和ケア病棟でいっしょに仕事をさせていただきました。そこで過ごした1年半はいろいろな意味で宝物のような日々でした。 そこで今度は「もっと早期の患者さんの緩和ケアがやってみたい」という思いが強くなり、大学の緩和ケアチームに所属させていただきました。 それから5年、今また初心にもどって老人医療に回帰しようとしています。

 思えばたくさんの師と出会いました。 大学で半年しか研修しておらず臨床能力が著しく低い私に、0からカルテの書き方や治療方針の立て方をおしえてくださった先生。 「緩和ケアを専門にしたい」と思っているだけで動き出せなかった私に、緩和ケアに関する研究会でどんどんプレゼンをするように背中をおしてくれた先生。 何の実績もなかった私に「緩和ケアをやりたいみたいだからから紹介してやってくれ」と大学で宣伝してくれた先生。 医師だけではありません。出会った患者さんからいろいろなことを学ばせていただきました。 私がまだ経験したことのない、病気や死の宣告を受けた先輩としての言葉や姿勢にはいつもたくさんのことを教えられます。 どの先生・どの患者さんが欠けても、今の私はなかったと思います。

 この春、下の子が大学に進学し、子育てはほぼ卒業しました。 私の場合の子育てのピークは、自分の医師としていろいろなことを経験するピークの時期とも重なり、目が回るほどの忙しさでした。 こちらも義父母や託児所の先生方のおかげで、なんとかなった気がします。 振り返ればあっという間で、もっと余裕をもって子供たちに接していればよかったと反省はしていますが、おそらくもう一度やり直すことができても、 同じ生き方をしてしまう気がします。

 子育てが終わって自分の時間が持てるようになりました。これを自分だけの時間に終わらせず、 今までであった先生方や患者さんに恩返しになるような医療をしていきたいと思っています。


「これまで、そしてこれから」岡山直子さん

山口大学医学部附属病院 副臨床検査技師長

岡山直子さん  私は山口大学医学部附属病院検査部にお世話になり随分と月日が流れてしまいました。ここで自分なりに振り返ってみました。
 20歳代は臨床検査技師って、とよくわからない状態からのスタートだったと思います。 とにかく一生懸命な時期でした。教えてもらうことは高校生まで、自ら学び、自分で調べる、自分で見つける、これが楽しさだと、いろいろな先輩から学びました。 30歳代は目標を持ち始め、何をやっても面白い、仕事が楽しい時期でした。いろいろな試験にも挑戦しました。 しかし試験を受けることに意義があるでは駄目だと言うことを痛感、結果がでて初めて本物であることを学びました。 この時期、私にとって最大のインパクトは“遺伝子検査”との出会いです。人は既にDNAで決まっている? そのA,C,G,Tのたった4種類の塩基、この組み合わせの違いから生まれる個性(多型)解析の魅力に、すっかりはまってしまったのです。 そこで40歳代は勉強しなければダメだと痛感し、山口大学大学院で遺伝子診断学を学びました。 このきっかけは、“検査の領域はあなた方がプロですよ”という当たり前の言葉に奮起した結果でした。 論文から解析結果を導くことの楽しさを学びました。 そして50歳代の現在、これまでに学んだ事を少しでも後輩達と一緒に共有すること、次世代者を育てることの大切さ、楽しさを学んでいるところです。
 それには健康第一と考え、テニス、山登り、ジョギングなど体力作りに心がけています。 仕事以外の仲間にも恵まれ、体を動かすことでストレス発散していたと思っていましたが、不覚にも数ヶ月前“帯状疱疹”なる病名をいただきました。 かなりショックでした。“加齢、ストレス、過労が引き金となってウイルスに対する免疫力が低下すると再び活動を始め発症する。” しかし、このオフの状態からもいろいろと学びました。
 バランスを保ちながら、自分の努力の限界は自分で決めないことを心がけながら、この先も学ぶことの大切さを忘れないようにしたいものです。 今回、私自身を振り返る良い機会を与えてもらったことに感謝!!


「天職と思える専門分野に出会えるように~オリジナリティを大切に、自身で決めること~」髙瀬 泉先生

山口大学大学院医学系研究科 法医学講座 准教授

髙瀬 泉先生  こんにちは。法医・生体侵襲解析医学分野の准教授の髙瀬泉(たかせいずみ)です。2009年10月に着任し、週末は教授の配慮のもと自宅のある神戸に帰る単身赴任生活を続けています。
 私は兵庫県で生まれ、平成10年に大阪医科大学を卒業後、東京大学の大学院に進みました。 当時、医療関連の法医解剖が増えることが予想され、当時の教授に臨床研修を勧められて、 大学院に籍をおいたまま兵庫県の地元の総合病院の胃腸外科で1年間研修させて頂きました。 研修医が1人だったこともあり、整形外科や産婦人科の手術にも入れて頂くなど他科の診療も経験させて頂きました。 半年後には、外来や人間ドックでのエコー・内視鏡検査を担当させて頂くまでになりました。内科の先生方が心臓をご専門にしておられたので、それ以外の内科は胃腸外科の担当で、 当然、ファーストコールである私はスズメバチのアナフィラキシーから誤って刺さった釣り針抜きから犬の咬傷の処置からさまざまなケースを経験しました。祖父が地元で開業していたこともあり、 外科に残るか、法医学に戻るか、かなり迷ったのですが、将来の家庭生活を考慮し、ある程度時間調整に融通がきく法医学をやはり選択し、東京へ戻りました。
 大学院では、指導教官から法医解剖の知識・技術のみでなく、ご遺体へ向き合う姿勢についてもしっかり教わり、それが法医学者としての私の根幹を成していると思います。 解剖室への出入りの際や解剖開始前には必ず礼をすること、これは今でも変わらず続けています。その教官は、交通事故の解剖の際には、警察署まで出向き、 事故に関連した車両の損傷を自身の目で確かめておられました。こういったことは普段なかなかできないのですが、私も山口へ着任してから多数の車両が関与したケースの際にその時の経験を思い出し、 実際に車両を見に行って鑑定書作成に役立てたことがありました。このように、大学院できちんとした指導を受けられたことは私にとって財産だと思います。 一方、研究面では、動物実験や細胞培養なども行ったのですが、社会医学的な事柄に関心があった私は警察庁・警視庁、また、東京と大阪の救急告示医療機関のご協力を得て、 日本における強かん(刑法の強姦と強制わいせつに相当)の被害者への医療者および警察官の対応について質問紙調査を実施し、その結果をまとめて博士号を取得しました。 このようなテーマで学位をとることは珍しく、よく驚かれるのですが、当時の指導教官がよく口にされていた‘originality’と‘neues’を評価して頂いた結果と感謝しています。
 母校の大阪医科大学に着任してからは親子鑑定等DNAを用いた実験手法等を学び、滋賀医科大学では児童虐待が疑われるお子さんの損傷鑑定を行いました。 現在、年間170件前後の法医解剖の約1/3の執刀に加え、大阪や中国・九州地方等年間20-30件の虐待疑いの損傷鑑定を受け、数件の裁判出廷も行うなど日本では数少ない臨床法医学者の1人です。
 法医学に進んだきっかけは、幼い頃にナイチンゲールの伝記に感動し、まず、看護師さんになりたいと思い、開業医であった祖父の姿を見て医師に憧れました。 その一方、法律や条例等が変わる度に警察官であった父の法律の本の頁の差し替えを手伝ううち、法律や政治関係の仕事にも関心をもちました。 そして、法学部と医学部のいずれを受験するか迷いましたが、先に研修等で体力が要りそうな医学部に行き、その後、法律・政治関係の勉強をしようと決めました。 すると、医学部で法律にも関わる法医学という分野に出会ったのでした。
 現在、大学の仕事に加え、大阪府松原市の阪南中央病院内に設置されている性暴力救援センター・大阪(SACHICO)の理事を拝命し、主に学術部門から運営等にできる範囲で関わっています。
 私も卒業当時、大学病院の外科で「オンナはいらない」とはっきり言われましたが、その後の研修病院では分け隔てなく、1人の研修医師としてご指導頂き、 結局、外科には進まなかったものの、その時に得た経験は今でも貴重です。
 これからさまざまな選択ができる皆さんには、どんなことでもいいので自分にしかできないこと、私だからこそできること、そういった核となるものを1つ見つけてもらえたらと思います。 また、自分で決めることを改めて大切にして欲しいです。実際に働いているといろいろなことがありますが、そういった姿勢でいると、何があっても大きくぶれることはないと思います。
 私は、法医学者という仕事を天職だと思っていますが、事件や事故と関連することが多く、そうでない場合も突然死などご遺族の悲しみに触れ、正直、辛いことばかりです。 しかし、幸い、三方を海に囲まれた山口県には美味しいお魚や地酒がありますし、宇部には映画館もあります。
 皆さんもそれぞれに最適なリフレッシュ法を見つけて、それぞれのペースで生涯現役として続けられ、いつか天職と言えるような選択をされるよう願っています。


「女性医師としての矜持」黒川典枝先生

山口大学医学部附属病院 特命教授 医療人育成センター副センター長 総合診療部部長

黒川典枝先生  2015年1月に医療人育成センター副センター長および総合診療部部長に着任しました黒川典枝(くろかわふみえ)です。 医療人育成センターでは、卒前卒後のキャリア形成の相談を中心に、若い医療人をサポートします。 総合診療部の立場では、一般内科の診療を行うとともに、医学部学生の講義・実習に各学年にわたり関与しています。
 今回このような機会をいただきましたので、私が歩いてきた道を少し振り返ってみようと思います。しばし、お付き合いください。

 「原体験」というのは、「その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの」だそうです。 とすれば、私には、女性医師としての「原体験」といえるものがあります。まずは、そのエピソードからお話しましょう。 山口大学医学部の学生時代(2年生ころだったと思いますが、、、)、夏休みを利用して山口県内のある総合病院で2週間見学をさせていただきました。 その初日に、医局長かと思われる先生から「君が医学部に合格したために、一人男性が医師になれなかったかもしれない。 一生、しっかり仕事をするように。」とかなり激しい口調で言われました。初対面の先生から怒るように発せられた言葉に、驚くばかりであっけにとられました。 同席していた看護部長さんから後になってその怒りの理由を教えられました。数週間前にその病院のある女性医師が急に退職され、 その科の医師が不在となり、休診になってしまっていたのです。その後2週間いろいろと見学させていただき、有意義な時間を過ごしましたが、 一番心に残ったのは、初日のあの先生の言葉でした。
 今考えてみると、このエピソードにはいろいろな意味が込められているように感じます。 ひとつには、医師というものは、「社会の財産」であるということ。 多くの血税が注がれて医師を作りだしていることは、皆さんご存知のとおりですが、社会に対する責務を私たちが十分に認識しているかと問われれば、 必ずしもそうではない人もいるように思います。 女子医学生の中にはアンケートに「結婚し子供を産んだら、仕事をやめて専業主婦になりたい」と書く人が実際にいます。 そういう人は医学部に入学すべきではない。医学部は単に医師免許を取得するための場所ではありません。 医学生や若い医師の皆さん、社会が私たち医師に何を期待し、どこで最も必要とされているか、目を開いてよく見て自分の進むべき道を決定してください。 後輩たちにはそうあってほしいと心から願います。

 私は、山口県生まれの山口県育ち、下関市の長府という小さな城下町で育ちました。昭和59年に山口大学医学部を卒業し、消化器内科(第1内科)に入局、 肝臓なかでも肝がんが専門です。恩師の沖田極先生の薫陶をうけ、学会活動を通じて知り合った多くの先生方に教えを受け、刺激されて仕事を続けてきました。 プライベートでは、卒業後2年目に同級生の脳外科医と結婚し、結婚後8年目にようやく一人娘を授かりました。 多くの方に援助していただき、子育てと仕事を続けました。その娘も大学を卒業し、子育ては一段落しました。 医師としては、勉強しても勉強しても足りないことばかりで、一生学び続けるのが医師の仕事だと実感しています。 逆にいえば、何らかの理由で学ぶペースが一時期遅くなったとしても、あせる必要はないと思います。 こつこつと自分のペースでたゆまず仕事をしていくことが大切だと感じます。

 この原稿のタイトルを「女性医師としての矜持」としました。「矜持(きょうじ)」とは「自分の能力を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド。」 という意味らしいのですが、私にはある種の「覚悟」も含まれた言葉のように感じられます。 この「覚悟」をもって、必要とされるところで今しばらく仕事を続けたいと考えます。


「私のワークライフバランス」原田美佐さん

山口大学医学部附属病院 副看護部長

原田美佐さん  はじめまして。私は附属病院で総務担当の副看護部長をしております、原田美佐と申します。宇部市で生まれ、宇部市で育ちました。 来年度、幼稚園教諭になる(はずの)長女と、大学生になる(はずの)次女の2人の娘がいます。
 私が現在担当している「総務」は、人事・労務・健康管理等々のいわゆる「ヒト」に関する調整や支援を行う仕事です。 私は山口大学病院で働くすべての看護職員が「なりたい自分になれる」ことや「働き続けたいと思える」病院になることをめざして仕事をしていますが、 職員が意に沿わない配置換えでやる気をなくしてしまうなどということもあり、そんなときは私も辛い気持ちになります。
 私が最近気に入っている言葉に「ワークサポーツライフ」があります。 自身の生活を大切にしながら、仕事が自分の人生を支えてくれ、より豊かなものにしてくれる、という発想です。 大変なことも多い看護管理という仕事ですが、松下幸之助さんが「どんな仕事でも不必要な仕事はない」と言われたように、 自分に課せられた仕事の「意味」を見いだし、どんな仕事も自分の成長につながっていると感じながら、楽しく取り組んでいます。 またある本に「自分は運がいいとつねに思いつづけることが大切」とありました。私がへこたれずに頑張り続けていられるのはまさにこれだ、と思いました。 問題が勃発しても「よし、このお陰でこれからはもっと良くなるよ!いいチャンスだったね!」という具合に前向きに捉えて発信していくことで、 自分もまわりも前向きな気持ちになれると信じています。
 実家の父は85歳になり、「わしはご飯、食べたかいのぉ?」としょっちゅう母に聞くようになりました。 母は「さっき○○食べたよ。またお腹が空いたん?」と優しく返します。 認知機能の低下を隠すための防衛反応かもしれませんが、「まあええわぁ、食べられるんじゃから!」とどこまでもポジティブな父。 この父の前向きさと母の優しさが、へこたれない今の私をつくり、支え続けてくれているんだなと感謝しながら、ペンを置きます。


「私の履歴書」吉本久子さん

山口大学医学部附属病院 主任薬剤師

吉本久子さん  このたび、医療人キャリア支援室相談員を拝命しました薬剤師の吉本と申します。至らないところも多々ありますが、よろしくお願い致します。
 私が薬剤師の仕事に就いて10数年経ちますが、刻々と変化する医薬品事情の把握とその情報を患者様や医療従事者の皆様へ有効に活用する難しさを日々痛感し、 何年経過しても目標とする薬剤師像に近づけないことにもどかしさを感じています。 私は現在、2人の子供を抱えており、仕事と家庭とどちらもバランスを取りながら両立させたい気持ちがある一方、どちらかに優先が傾き、 どちらかが不十分になることの現実に直面し、葛藤の日々を送っているところです。このような私ですが、何かのお役に立てれば幸いです。
 現在、私は、山口大学病院医学部附属病院の薬剤部に勤務しています。薬剤部の業務は、調剤、注射調剤、DIセンター、病棟業務、薬品管理、製剤、 薬物血中濃度解析、試験の分野から成り立っています。これらの業務のうち、私は、現在「薬品管理」の業務を担当しています。「薬品管理」の業務は、 一言で説明するとしたら、法的に厳重な管理が必要と定められている麻薬・毒薬・向精神薬が、病院内で適切に管理、 使用されているかをチェックすることが主な仕事です。この仕事を通して、大切な分野でありながら私自身意識が薄かった、 医薬品を厳重に取扱う必要性について、また、取扱いを誤ると、患者様に健康被害が発生する恐れがあること、 また、病院の信頼にも関わる重大な問題に発展する危険性があることについて、以前より認識を深めることができたことに意義を感じています。
 私が限られた時間の中で現在の業務に取り組むことができるのは、薬剤部長及び薬剤副部長のご理解とご支援のお陰であり、  毎日遅い時間まで薬剤業務に取り組んでいる薬剤部職員の皆さんのお陰と感謝しています。  今後、多数の若手職員が仕事や生活面で困難に直面した際に、相談者となり対応策を検討するなどの支援ができればと思っております。